「VR Architecture Award(VRAA)」では、 “Architecture” は狭い意味での建築ではなく、空間の「アーキテクチャ=構造・仕組み・設計思想」を表します。
ここ「知る」のページでは建築の世界の過去の試行から「Architecture」について考えてみたいと思います。
●あるひとつの「世界」を想像、創造する試み
“Alles ist Architektur”
かつて建築の世界には「すべては建築である」と宣言した建築家がいました。
その建築家が提案したのは、「ノン・フィジカル・エンヴァイラメンタル・コントロール・キット」(1967年)というひとつの錠剤です。
同じく紹介された別の建築家ワルター・ピッヒラーはディスプレイを内部に搭載したヘルメットを提案しました。
彼らは柱を立てることもなく、壁を立てることもなく、それをもってして建築と呼びました。
彼らが唱えた「建築」とは何だったのでしょうか?
それはこのようなものです。
「建物そのものではなく、主体を取り囲み影響を与える環境こそが建築である」
トリップ状態を引き起こす錠剤、そしてHMDと思しきヘルメットによる体験、それらを「建築」と呼んだのです。
この宣言がなされたのは1968年。
そう、この時に建築とは「建築そのものであることから、なにかと関係をつくりだすこと」が建築であると宣言されたのです(そして、この世に存在するあらゆるものは何かと関係を持っているのだと言えます)。
「VRAA01」の「architecture」は建築を拡張し、領域を横断していくことを意図したキーワードです。この1968年の宣言は「architecture」を先取りしたような宣言と言えます。
そして、この宣言をはじめとして建築の世界では数えきれない数の「architecture」とも言える試みがかつて存在しました。それらは「アンビルト」という名で呼ばれています。
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ピラネージの「牢獄」やカンポ・マルティの理想図
気球によって移動する都市「インスタント・シティ」(ピーター・クック)
データたちのランドスケープ「データ・シティ」(MVRDV)
豚たちのまち「ピッグ・シティ」(MVRDV)
新しい地球「テラ・ノヴァ」(レベウス・ウッズ)
「高層化人工大地」(サイト)
緑に侵食される建築:エミリオ・アンバース
実現しなかった記念碑「第三インターナショナル記念塔」(ウラジミール・タトリン)
地球規模のネットワークを持つ空想都市「ニュー・バビロン」(コンスタント)
「ランドスケープの中にある航空母艦都市」(ハンス・ホライン)
「雲のように浮遊し変化する建築」(コープ・ヒンメルブラウ)
砂漠に浮かぶ雲のような構造体「デザート・クラウド(砂漠の雲)」(グラハム・スティーヴンス)
「クレーター都市」(シャネアク)
空中に浮かぶ迷宮「空中都市」(ヨナ・フリードマン)
家具と建築と都市の融合「ノン・ストップ・シティ」(アーキズーム)
時間が停止したような、懐かしい未来「モデナの墓地」(アルド・ロッシ)
無限のバリエーションのマンハッタン・グリッド「デリリアス・ニューヨーク」(レム・コールハース)
演者が鑑賞者になり、鑑賞者が演者になるシアター「ファンパレス」(セドリック・プライス)
世界を席巻する洪水「12の理想都市」(スーパースタジオ)
死者が都市を照らす「Constellation Park」(デスラボ)
…other
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それらの試みは建築家自身の思想や、時代や、社会や、技術などさまざまな状況の中から当時の建築家たちが夢想し、想像し、創造し、生み出されたものです。
これらもまたVRAAが目指すように既成の「建築」の概念を飛び越え、領域を拡張していくことを目指したものでした。
ドローイングや模型、インスタレーションと言った限定的な表現でありながら、「主体を取り囲み影響を与える環境」、つまり、あるひとつの「世界」を想像、創造する試みだったと言えます。
●「世界」への思考を深める
もうひとつ例を挙げてみましょう。
菊竹清訓という建築家がかつて「か」「かた」「かたち」という建築の考え方を掲げました(『代謝建築論』1969年)。これは設計の方法を理論化したもので、「か」が本質論的段階、「かた」が実体論的段階、「かたち」が現象論的段階を指し、設計とはこの3つをぐるぐると巡りながら進められるものだと示しました。
このままでは難しくてよく分からないので、建築家の仙田満氏が考えたたとえ話を引用しながら、見ていきましょう。
たとえば、「か」を「水を飲みたい」という欲求としましょう。それに対して「かた」は昔の人が手ですくって飲んだり、貝殻ですくって飲んだりした行為を発展させ、カップやストロー、スプーンなどの飲むための技術としたものです。そして「かたち」は文字通り、形態や素材などのことを指します。
ここで重要なのは「かたち」をつくることではなく「かた」を発明することが重要だということです。なぜなら「かた」がなければそもそも「かたち」は存在することができないからです。
そして、「かた」を発明するために必要なのが「仮説」を立てることです。カップの例を考えるならば、「水を飲む」ためには口まで水を持っていく必要がある。 この世界には重力があり、水は液体であるから形状が変化する、そのため、形状を保つためには密な面で覆われる必要がある…
こうした論理を重ねていくことで「仮説」は構築されていきます。「仮説」とは「世界」への思考を深めていくこととも言えるのです。
つまり、「建築」とは「世界」への思考を深めていくことなのです。
●「architecture」→「世界」を「主体的/客体的」に考える
そこには、どんな「世界」が広がっているのか?
「architecture」を考えるには「ひとつの「世界」を想像、創造する試み」と「「世界」への思考を深めていく」とふたつの方向性が考えられそうです(もちろんもっと方向性があるかもしれません)。
そのヒントとしてここでは「アンビルト」に思いを馳せてみたいと考えます。「アンビルト」はひとつの「世界」を想像、創造する試みです。これまで試行された「存在しなかった世界」を改めて見ることで「これから存在しうる世界」を考える。この場所は、そんな機会にしたいと思います。
(文責:hukukozy/FUKUKOZY、@hukukozy)
参考文献:
・artscape
・『美術手帖』1969年12月号「あらゆるものが建築である」(ハンス・ホライン、美術出版社)
・『建築の解体 一九六八年の建築状況』( 磯崎新、鹿島出版会、1997年)
・『終わりの建築/始まりの建築 ポスト・ラディカリズムの建築と言説』( 五十嵐太郎、INAX出版、2001年)
・『アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005』(森美術館、平凡社、2004年)
・『代謝建築論』(菊竹清訓、彰国社、1969年)
・〈建築理論研究 08〉──菊竹清訓『代謝建築論──か・かた・かたち』平田晃久+南泰裕+天内大樹+市川紘司
・『新建築』2019年6月号建築論壇「環境と子どもの成育 創造力を育む建築、コミュニティ」(仙田満、新建築社、2019年)